死ぬのは肉体か霊魂か
キリスト教では、霊・肉二元論という考え方をとっています。
そこから肉体というのは霊魂の宿る借家みたいなものだという意識が生まれるので、キリスト教問では臓器移植などにあまり抵抗がないのではないでしょうか。
住人である魂がいなくなったのだから、肉体なんか貸してあければいいではないかという考え方です。
こういう認識は、日本人とはまったく違うものだと思います。
今の医学書を見ると、死は肉体の死と限定して書かれています。そういう認識で、「ではお葬式にはどういう意味があるのか」と間われた時、それだけで答えを出そうとすれば、お葬式というのは単に肉体の処理、死体の後始末ということになってしまいます。
しかし、現代の日本人の中でも、ある人々は人間には霊魂もあるのだから、肉体の処理ばかりでなく魂の処理もなされなければならないと考えているはずです。
だからわたしたちは、お葬式には肉体と魂の処理とい2つの次元があるということを忘れてはいけないと思います。
死は「ケガレ」と考えた古代日本人その1
お葬式は、死のケガレを払う儀式だという言い方をされることがあります。
それは一面では正しいといえます。
吉代の日本人は、死を、ケガレと考えました。
わたしたちはケガレといわれると、「不潔」と結びつけて考えがちですが、そういう意味ではありません。
古代神道には、ハレとケという考え方があります。
“ケ”は「気」で、元気とか容器とか陰気とかの「気」です。
わたしたちが日常生活をしているうちに、この気がだんだん滅入ってきたり弱まってきたりします。
気が枯れてくるわけです。
これが「気枯れ」、すなわちかケガレです。
そうすると、リフレッシュしでもう一度気を回復しなければならない。
そこで行われるのがお祭りです。非日常的なお祭りを行うことによって、日常の中で枯れた気を回復しようというわりです。
これがか”ハレ”です。
だからお祭りの時に着る詰物を「晴れ着」と呼び、「晴れの門出」などということばもできたのです。